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平成30年度厚生労働省難病患者サポート事業

難病患者サポート事業


死者1万5897人、行方不明者2533人、震災関連死3701人となった東日本大震災から8年目を迎えるのを前に、JPAは3.11 東日本大災害 第7回福島を肌で感じるツアーを開催しました。詳細は下記をご覧ください。(藤原)


お知らせ1.概要

 実施事業名 3.11東日本大震災 第7回福島を肌で感じるツアー
 主催団体  一般社団法人 日本難病・疾病団体協議会
 共催団体 福島県難病団体連絡協議会
岩手県難病・疾病団体協議会
NPO法人宮城県患者・家族団体連絡協議会
 日  時 2019年3月9日(土)10:00~17:30
     3月10日(日)9:00~14:00(1泊2日)
 参加者 7名
 交通手段  レンタカー(10人乗りワゴン車)
 行 程 ●第1日:3月9日(土)10:00 JR郡山駅西口広場出発
 [福島県]
 →川俣町:銘品館「シルクピア」休憩(11:15)、山木屋地区「やまこや」昼食(12:00)
 →浪江町:国道114号線から帰還困難地域を視察 津島地区を視察(13:20)
      浪江町役場周辺を視察(14:20) 請戸漁港を視察(14:35)
 →南相馬市:JR小高駅周辺を視察(15:10)
       道の駅「そうま」隣の仮設住宅に住む江井恵子さんを訪問(16:20)
 →ホテル西山(17:30頃)
 夕食・交流会(18:30)(バー・ウィザード)
  
●第2日:3月10日(日)9:00 ホテル西山を出発
 [宮城県]
 →山元町:合戦原神社を視察(10:20)
      旧JR山下駅周辺を視察
 →名取市閖上を視察(12:00) 
 →名取市内牛タン専門店にて昼食(13:00)
 →JR名取駅、仙台空港にて解散(14:00)

お知らせ2.各地域の視察状況

(写真はクリックで拡大します
 JR郡山駅 駅にはたくさんのタクシーや自家用車が乗り入れしており、駅前ではバスを待つ若い人の姿も多く見られ活気が感じられた。モニタリングホストの線量は0.128μSv/h。ちなみに東京都は0.034μSv/h。
 川俣町
除染が終わり数年経つが、以前はいたるところで見られたフレコンバック(除染等で生じた放射線量を含む廃棄物)が撤去され風景から原発災害を感じられなくなっている。
銘品館シルクピア(福島県伊達郡川俣町鶴沢東13-1)周辺は、一見しただけでは普通の地方の様子と変わらない。線量は0.259μSv/h。
川俣町のなかでも放射線量の高かった山木屋地区は、2017年3月31日に避難指示区域が解除された。しかし、このあたりまで来るとすれ違う車も人の姿も少ない。福島第一原発の事故で避難を余儀なくされていた山小屋小学校は、2018年の春から小中一貫校として地元での授業を再開させているが、在校生がすべて卒業し新入生の見込みがないことから休校となる見通し。

銘品館「シルクピア」で休憩

 一見すると普通の町の様子と同様

 だんだん閑散とした風景になる
 浪江町 さらに浪江町までくると様子が大きく変わり、帰還困難区域は震災後とほとんど同じような状態。特に津島地区は福島第一原発からは20 km以上離れているが、いまだ放射線量が高い。草むらの線量は2.67μSv/hを計測、今回の視察でもっとも高かった。
浪江町立津島中学校は休校中で校舎は現在も使われていない。周辺に人の気配もない。原発事故後は放射性物質が流れて来ているとは知らず、校内に多くの町民が避難して数日間過ごしたが、現在はひっそりとしていた。
浪江町役場本庁舎は2017年4月より業務再開している。役場内の敷地では、仮設商業共同店舗施設「まち・なみ・まるしぇ」(飲食店、ミニライブなど)により復興を盛り立てようとがんばっていた。役場に立てられた「おかえりなさい ふるさと浪江町へ」という明るい青色の看板が目を引く。しかし、本庁舎周辺は、まだ人の住んでいない家屋が多く見られる。町民へのアンケートによると、放射線への不安と買い物の不便、医療体制の不備が帰還を阻害する主な要因となっている。
請戸漁港は福島第一原発から約6キロ北の太平洋岸に位置する。そのため津波による壊滅的被害に加えて原発事故による避難生活を余儀なくされた地域。現在、堤防や漁業関連施設などの復旧作業の真っ最中だった。漁港周辺の多くは更地のままで、崩壊した家屋の基礎部分だけが残っているなど今も震災の爪痕を感じる。震災後、漁船の多くは他の漁港に避難していたが、避難指示解除に伴い2017年2月ごろから請戸に戻っている。同漁港に係留する船は約30隻。「浪江町の復興は請戸漁港から」という大看板から関係者の意気込みを感じる。漁業の復活には原発事故による風評被害の克服が重要であるが、報道では政府は増え続けている福島第一原発の汚染水の海洋放出も検討しており、汚染水をめぐり地元漁業関係者の不安も大きいという。原発の処理をめぐる解決の糸口は見出せていない。
浪江町は2017年3月に帰還困難地域を除く地域の避難指示が解除された。しかし、2019年2月末、同町に住民票を置く人は1万7526人だが居住人口は910人に過ぎない。(浪江町のHPから)

 浪江町津島地区は様子が大きく変わる

津島地区の様子

休校中の津島中学校

浪江町役場の仮設商業共同店舗施設

浪江町役場の看板

請戸漁港

請戸漁港の大きな看板
避難指示解除で漁港に戻ってきた漁船
請戸漁港周辺はまだこんな様子
 南相馬市 常磐線の常磐線の竜田―富岡間6.9kmは2017年10月21日に運転を再開。浪江駅から富岡駅の約20qの間では、今もなお駅舎や線路などの復旧作業が行われており、全線開通は2020年春頃の予定となっている。JR小高駅はきれいに整備されていたが周辺は閑散としていた。駅前で地元の農産品や民芸品を販売する地小さな店「希来」を訪問、店番をする年配の女性と少し言葉を交わした。店主は隣の双葉旅館のご主人。とても採算がとれるものではないが、町の復興のために営業を続けているらしい。作家の柳美里氏が2018年4月にオープンさせた本屋「フルハウス」にも立ち寄った。小さな店だが、本のセンスはなかなかのもの。
続いて道の駅「南相馬」と道を挟んで隣にある仮設住宅にリウマチの江井恵子さんを訪問。7年間暮らした仮設住宅を3月中に引き払い小高の自宅に帰ることが決まっており、現在の心境などをインタビューする。江井さんは転倒により人工肩関節の手術を受け、昨年は実母を亡くされていたが気丈にもお元気そうな様子だった。ただ、「帰っても、もう農業はできないだろうから飲んで、食って、寝るぐらいしかない。」と語る声が被災者の現実を表しているように感じた。

JR小高駅周辺は人影がない

駅前で集合写真

駅の路線図

無人の小高駅内

「希来」さんで店番をする女性

店の前で双葉旅館の店主とお話

人影のない小高駅周辺

南相馬市の仮設住宅

江井さんと再会
 山元町 震災により637人の死者を出した山元町。旧JR山下駅跡は、わずかに残るホームのコンクリート以外駅の痕跡が無くなりつつある。駅のすぐ南側は、線路跡が道路になろうとしている。旧駅前の橋元商店は残念ながら休業日。周辺では道路の拡張工事が行われ、新たな家も建ち始めている一方でまだ更地も多く残されていた。
内陸部の新JR山下駅の横にはスーパーマーケット「フレスコ」が新規開店しており駐車場には買い物客の車が多数見られた。
山元町の被災前(2010年10月)の総人口は16,704人だったが2019年2月末の総人口は12,235人となり震災が過疎化を加速させた。山元町の特産はイチゴだが、イチゴ農家の大半が津波で被災した。しかし、2018年産は面積で震災前の75%、収量は最新鋭ハウスの導入効果で92%まで回復した。ただ、農家は65戸で震災前の129戸から半減している。(山元町のHPから)

山元町の様子

旧JR山下駅を視察

駅のすぐ横まで道路が作られている

旧JR山下駅周辺

被災直後のJR山下駅

新山下駅となりのスーパーマーケット
 名取市閖上 閖上の日和山に向かう途中、津波で被災した名取市立閖上小、閖上中学が一緒になった小中一貫型の「閖上小中学校」(2018年4月開校)の横を通過。4階に食料や機材を備蓄するなど災害に備えたさまざまな対策が施されている校舎を確認できた。
日和見山周辺は現在も道路整備とかさ上げ工事が進められおり、年々少しずつ様子が変わっている。しかし、新しい町として再生するまで、まだ数年はかかるのではという印象を受けた。日和山の入り口には赤い鳥居が建てられていた。海岸線の堤防工事はかなり進んでいる様子。
閖上の震災前(2011年2月)の人口は7,103人。2017年2月が2,159人。2018年2月は2,373人。2019年2月時点では2,645人。名取市の定住促進活動により徐々に回復傾向を示すが、震災前と比較すると大きく減少している。(名取市のHPから)

 閖上小中学校

 日和山

 日和山の上から見た様子

 日和山の上

 堤防から視察

 
 全体のまとめ 現地を訪問すると土木工事による復興は見た目にもわかりやすい。一方、閑散とした町の様子などから、課題の一つは人口減少への対応であることは確かである。特に福島県の被災地は原発事故による影響が復興への足かせになっていることは否めない。報道では福島第一原発の廃炉への道も数十年と遠いばかりか、汚染水処理問題もその入り口に過ぎず、現地の視察からも残された課題は深刻であることが理解できる。風評と同時に原発災害そのものの風化により、ただなんとなく福島イコール汚染というイメージのだけの定着も懸念される。正しい情報を発信し続けることの重要性も再確認する機会となった。
一方、宮城県では原発問題がないだけ復興への明るさを感じるが、本邦全体が人口減少と地域経済が疲弊しているなかで、本当に被災地の試練が試されるのは復興期間及び復興特需の終了後かもしれない。また、全体として災害公営住宅での孤独死など、地域コミュニティの崩壊による問題。または災害によるショックから精神的に取り残された人たちへのアプローチなど復興への課題は複雑かつ繊細な一面をもつように思える。特に心の復興は金銭で買えるものではなく、今後わが国がどういった社会を目指すのかといった基本政策のあり方とも併せて考える必要があるのではないだろうか。



お知らせ3.参加者の感想

 江井恵子さん
の話
仮設住宅は、家がリフォーム中などの特殊事情がある人は1年延長できるが、そうでない人は3月31日までに出ないといけない。ここで7年住んだ。バリアフリーで掃除も楽だしサイズ的にもいいけど、私も3月中に引き払い小高の家に戻る。ここの仮設は全部で100件ぐらいあったが今は20件ぐらいで引っ越しの準備中。来年も残るのは2件ぐらい。2年前に解除になり一緒にいた父・母は出ていき、息子も出ていき今は独り暮らし。母は昨年膵臓癌で亡くなった。帰っても、もう農業はできないだろうから飲んで、食って、寝るぐらいしかない。
 小関 理さん 南相馬の町はけっこう賑わっていますが、やはり原発特需、震災特需だけなのかなぁという感じはひじょうにしました。見えるところの変わりようはすごくて、閖上は昨年とまるで違っておりましたが、これが北の方に行くとどうなるのか。あるいは今後、原発関係はどのようになるのかひじょうに心配です。オリンピックの後に万博などという変なことをやるのが気がかりでございます。
 海子輝一さん 2日間ドライバーを務めた宮城県の海子です。昨年までは名取に住み海のある町の市民として暮らしていましたが、今年から内陸部の村田町に引っ越ししました。そこで感じたのは、感覚の当事者であるか否かといことで町を超えて引っ越しただけでもずいぶんと違いました。商売や仕事がなくなったりでひじょうに困った方もいれば、震災前となんら変わらない人もいて、このあたりのグランデーションはいつまで経ってもコントラストがきついままです。特に飯館村とかでは、年を追うごとにそのように感じるような旅でした。
 中澤幸子さん 今回初めて参加させていただいたのですが、いろいろなところが少しずつ回復しているというのは、これまでにも何回か来ているのでわかりました。実際に住んでいる人たちがこれをどのように伝えていくのかといったことや、私たち自身が見たものをどのように伝えていけばいいのかを、今後整理して発信できればいいなぁと思っております。参加させていただきありがとうございました。
 大坪恵太さん 今回で3年目になります。何を復興と定義するかにもよりますが、どこの町も概ね一歩一歩ですが、変わりつつあると感じることができました。浪江町では「まるしぇ」という活動が始まったり、町では人もちょっとずつ戻ってこられているのかなと感じることができました。一方で山間部の帰宅困難地域では、特に津島小学校のあたりはあまり進んでいる様子は感じられないと思いました。帰宅困難地域の道路も、べつに通れるのですが、それをひっくり返して新しい道路を作っていたりしていますが、それも意義のあることかもしれませんが、もう少し住んでいる人が戻ってこられる方向にお金を使っていただけるといいのかぁと感じました。あと、閖上が変わりすぎていてびっくりしました。
 渡邊善広さん 福島、宮城と毎回来ているわけですが、福島は原発の影響がまだありますが急いで開通させたところもあり、簡易線量計では2.89という値を示し、まだまだ帰れない方、新しく生活を始めている方。浪江と南相馬ではぜんぜん違い、原発が絡んでいないと復興が早いのかなぁと思いました。今回、3・11前の開催で、各地で慰霊祭の準備をしているところがとても印象的でした。今年は江井さんが参加していただきありがたいと思います。南相馬の仮設が3月31日で閉鎖ということで、これも復興の一部ではないでしょうか。
 伊藤たておさん 原発事故による災害の大きかった福島とそれ以外の地域というのは基本的に大きな違いがあると思います。ただ、自然災害はいつどこで起きるかわからないのでやむをえないものもあるでしょうけど、復興に向けては山は山への親しみやたたかいもあり、海は海との親しみや海で生きていくということ、そして都市部は都市部の生活というものがあると思うのです。そういうものを無視した復興というのはいかがなものかと。いずれそれも垣根がなくなるのだと思いますが、復興当初からそれぞれの地理的な違いを考慮した復興計画であった方がよかったのではないかと思います。ただ、原発というものを抱えた地域、福島の災害というのはまったく質の違う問題で、自然のように必ず起きるとか起きやすい地域というのは本来あり得ないわけで人為的に作ったものによって起こった災害であるということ。つい先日の新聞に湯川秀樹博士の「我々はコントロールできないモンスターを作り出してしまった」という言葉が載っていましたが、コントロールできないものまで作って追及しなければならないものとはいったい何だったのか。そして、今後どうなるのかということも考えなければならないと思います。とりわけいま、遺伝子の改変「ゲノム編集」による安易な遺伝子の改変が大きな課題で、将来的にも人類の大きな課題になると思います。それを思うときに、コントロールの効かない便利なものだといわれていた原子力発電というのが結局なにをもたらしたかということも合わせて考える機会にしたく、残りの来年、再来年に向けて追及していきたいと思います。
 藤原 勝さん 3年ぶりの参加です。前回来たときは川俣町や浪江町で多く見られたフレコンバック(除染等で生じた放射線量を含む廃棄物)が無くなり、これまでとは違う風景に見えました。中間貯蔵施設に集積したのでしょか。復興五輪を意識した政府の復旧・復興対策とそこで暮らしていた人やいまも暮らしている人たちの気持ちは同じ方向を向いているのか気がかりでした。視察するだけでなく、そこで暮らしている人たちと寄り添える方法があればもっといいツアーになるかもしれませんね。

お知らせ事務局

一社)日本難病・疾病団体協議会 難病患者サポート事業事務局
 〒170-0002
 東京都豊島区巣鴨1-11-2 巣鴨陽光ハイツ604号
 TEL 03-6902-2083
 FAX 03-6902-2084
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*通常業務時間は土日・祝日を除き9:30〜17:30です。
なお、職員体制の都合により留守にすることもありますのでご了承ください。

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