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難病患者サポート事業



お知らせ江井さんの体験談

 今日は至らぬ案内でしたがありがとうございました。小さな車なら、もっと奥まで入って生々しいところも見られたのですが、バスなので私の自宅も案内できませんでした。
 実は私は大きなペットを飼っています。馬2頭です。本当は津波の現場だけでなくて、私の馬も見せたかったし、牛や荒れた畑も見せたかったです。家はネズミの糞で納屋も蔵も離れもすごい状態です。かろうじて2年前に新築した家はなんとかもっているのですが、ぜひそういうところも見てほしかったです。

 私はリウマチ友の会の役員をしているのですが、実は支部長をとおしてJPAから最初にこのお話をいただいたときはお断りしたのです。その理由ですが、なぜ今ごろ野次馬根性みたいにしてくるんだと言いました。そうしたら支部長がわかったと言ったのですが、ある程度日にちが経ってから、「ぜひお願いできないだろうか」ともう一度きたのですね。それで私も、2年経っていることだし、皆さんはそういう感じではないんだなぁとわかったのでお受けしました。

 地震がきて津波がきて、原発事故がありましたが、その関係を少しお話したいと思います。
 まず地震がきました。そして停電しました。津波の影響で電線が切れてテレビも観られなくなりました。その日は暗がりの中で夕ご飯を食べて、着の身着のままで寝ました。次の日はお天気が良かったので片付けなどをやっていました。もちろん、あの津波がきていたとは夢にも思わないです。わずか直線距離で2キロか3キロしか離れていないのですが。ヘリコプターとか救急車が搬送するサイレンの音がすごかったです。それで、毛布などがある方はぜひ持ってきてくださいという放送が流れました。
 そうしているうちに、その日の3時35分ぐらいに突然爆発の音が聞こえたのです。家は原発から17キロなのですが「なんだろう、また地震がくるのかなぁ」と思っていたのですが、それが原発の第1号機の爆発でした。
 私たちは何も聞かせられていないというか、何もわからないで家で片づけをしていました。そうしたら、次の日あたりから避難しろと言われました。それでも私は、3.4日は避難しませんでした。足も痛いしトイレも洋式じゃないとできないし、体育館のトイレではできないと思ったからです。

 そのうち、ヘリコプターが上を飛ぶのですよ。そして、人影を見つけると指令がいくのですね。そうすると、あなたは避難しなさいと言われます。私は戦争を体験していませんが、艦砲射撃ではないですが、そういう感じですね。だから、夜は明かりを消して食事をして、日中は外に出ないで物陰に隠れるようにして4日間過ごしました。
 そして、とうとうやっぱりだめだと、次の原発の建屋も飛ぶということで山の馬事公苑に避難しました。しかし、そこも間もなく危ないということで、そのときは3号機も爆発したのかな、それで中通りか会津の方に行かなくてはならないということで逃げました。

 最初は、あと3か月で閉めようと思っていたという猪苗代の古びた温泉旅館で1か月過しました。その当時はお金が免除になっていなかったから1日3000円です。食事は自分たちで作りなさいと言われて、大きな風呂も自分たちで掃除しました。もう何が何だかわからなくて。仮設や借り上げ住宅を探してもなかなか見つかりません。その後は転々と親戚とかをまわり、ようやく西会津に近い喜多方市のすごい山の中の豪雪地帯に見つかり、そこに一家で避難しました。
 とはいっても夫は仕事の関係で南相馬に残り、両親と息子で半年間過しましたが、豪雪地帯で車の運転もできないということで、再び海が見える仮設か借り上げ住宅を探しました。なかなか見つからなかったのですが、やっと見つけたのが一昨年の12月、今日皆さんに披露した仮設住宅です。

 それまでは父や母は何も言わなかったのですが、生まれてから80年、南相馬市で過したきたじゃないですか。あるときポロっと言うのです。「あのなぁ、会津では山から太陽が上がって山に沈むんだぁ」と。それまで太陽は、海から上がって山に沈むものだとばかり思っていたのですね。それぐらい、老人にはきついことだったのです。
 南相馬の仮設に来たときは、活き活きしているのが顔でわかるのです。やっぱり生まれた土地というのはこんなにいいものかと思いました。何も親孝行できなかったけど、私はこれで親孝行ができたなぁと自負しました。今の仮設は、車で15分ぐらいで家まで行けますし、暖かいし、こんな感じで暮らしています。

 震災による原発事故で、私たちは犠牲になったのかどうかはわからないのですが、私はやっぱり犠牲になったとは思いたくないのですよ。こんなに辛い思いをしていてもです。原発でこういう状態になったのは、世界中の人に原発はこれだけ怖いものだと知らしめることに私たちは貢献しているのかなぁと思うようにしているのです。そうでないといたたまれないのです。私のところはそうでもなかったですが、本当に家族はバラバラです。だから、ストレスがすごくかかっています。
 町で知っている人に会ってもわからないぐらい、顔も変貌しています。精神的にやられるとこうなるのだということを、まじまじと見せつけられました。今まであまり患者がなかった精神科も、夜眠られないとかなんとかで今は本当に多いです。

 この震災で私がわかったのは「小欲知足」というのか、小さなもので足りるということです。だから家も、小さな仮設で十分です。あんな大きな家はいらないとか、着るものだって着替えが3枚あればもういいです。自慢ではありませんが、私はユニクロでトータルして3000円ぐらいのものしか着ていませんが、それで十分です。今までは、あまりにも贅沢をしてきたのだなぁと思います。それで神様が、もう少し注意しなさい、昔のような生活をしなさいと怒ったのかぁと思ったりしています。
 こうやって今日の皆さんの自己紹介を聞いていると、やっぱり見てもらって良かったなぁと思いました。

 報道されているのは一部分だし、かっこいいことしか言っていないし、復興は進んでいるなんて言っていますけども、本当に進んでいません。皆さんには、目の当たりにしていただいて良かったと思います。

 最後に病気の話を少しします。私はリウマチですが、20年ぐらい寛解状態で薬を飲んでいなかったのです。私は薬を飲んでいないぞと自慢していました。
 それが震災の年の10月にすごく頭が痛くなり、これは普通の頭痛と違うと思い病院に行ったら高血圧でした。もう血圧が200以上あり、測定不能と言われ薬を飲むようになりました。そして、こちらの仮設に来てほっとしたのか何かで、突然リウマチが再発しました。数値がかなり高くなり、それでまた薬を飲むようになりました。
 現在は薬が効いて落ち着いてきたので、このまま治まればいいなぁと思っています。だから本当に、人間は何の病気でもそうですがストレスは怖いと思いました。
 ということで、ありがとうございました。
江井恵子

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